オタクが一般人に知識を熱く語っても面白く思ってもらえる可能性は極めて低い
またあんまりオタクが関係ない話になってしまった。ごめんなさい。
このエントリの発端は、はてブの注目の動画が急速に劣化した件についてを見たこと。
情報の価値判断って人それぞれなんだけど、人間全般って一体どういう基準で情報の価値を判定してるのだろうか?ってのがすんげー不思議になってきたので考えてみた。
以下は毎度のごとく学術的な根拠はありません。
なので「お客様の中に脳や記憶の研究者の方はいらっしゃいませんかー」「ふむ、私は研究者だが。何事かね?」「当エントリの作者がまたバカな妄想を始めまして、間違っていることがあれば助けて頂きたいのですが…」ということで何卒よろしくお願いします。ひらに、ひらに〜
いきなり結論から入ります
色々と考えてみた結果、情報の重要度判定は3つの柱で構成されているようです。
- 感情
- 知識
- 状況
です。以下、その説明。
1.感情を刺激される情報の重要度は高くなるようだ
この仕組みは個体が生き残るために都合が良かったのだと思う。
(生存などの欲求がある生命体にとって)感情を揺り動かされる情報というのは、それが快にしろ不快にしろ、生き残っていくために意味のある情報と見なせる。逆に、箸にも棒にもかからないような、何の感情も刺激されない情報は自分の生死にさしたる影響を与えないと見なせる。
よって、感情を揺り動かされる情報は記憶(学習)の対象になる。強く心を揺さぶられるほど強い記憶の対象となる。この情報の重要度の判定方法は、おそらく赤ん坊の頃から死ぬまでずっと機能し続けている。
激しい感情を伴う記憶が、いつまでも鮮明に残っているのはこういう理由による…と思う。
2.自分と関係がある情報の重要度は高くなるようだ
大人になるにつれて知識が増える。知識が増えると、情報の重要度判定に『既存の知識』が影響してくる。
- 重要度低:既に知っている情報
- 重要度低:既存の知識とまったく関係がないと思われる情報
- 重要度高:既存の知識と大いに関係していて、かつ未知の情報
ということになる。もうちょい噛み砕くと、
- その情報は、自分とどれくらい関係しているのか?
という視点が情報の重要度の判定になっているようだ。自分というのは過去から今まで繋がる記憶のことだから、自分が変わると同じ情報でも価値が変わるのだ。
3.人間は、状況からも情報の重要度を判定するようだ
ニコニコ動画で、すげー面白いコンテンツを見てたんだけど、なんか部屋が暑いなーと思って振り返ったら、
「うわっ、火事だ!」
ってことになったら、どんだけ面白いコンテンツだったとしても、その情報の価値はゼロに等しくなる(火事がおさまれば価値は復旧する)。…という極端な例を出すと分かりやすいかなと思ったのだが、逆に微妙になってしまった。うーん、まあいいか。とにかく、
- 状況に応じて情報の価値判断は変わる
ということだ。
あと、これは確か「社会的なんたら認知」みたいな正式名称があったと思うけど
- 人間は、周囲の人間の反応によってものごとの価値を判定する
という傾向もある。
たとえば、未知の綺麗な果物を見つけたんだけど、周りの人たちが全然食べようとしない場合は「この果物、危ないのかな?」となる。逆に喜んで食べようとする場合には「自分も食べてみよう」となる。
物理世界に限らず、情報の世界でも盛り上がってる雰囲気のある場では「あ、この情報は面白いんだ」となる。情報の内容はあまり関係がない。(これはひろゆきも言っていたことだと思う。)お祭りは、皆で盛り上がる祭りの雰囲気が重要なのであって、祭りの内容の充実は、その雰囲気以上に重要ではない。
余談:そういう意味ではニコニコ動画は脅威だ
どんなに未知の動画でも、流れるコメントが『周囲に居る人』そのものであり『価値判断を醸成するもの』なのである。だからブームを生み出す。ウッウッーウマウマ(゚∀゚)とかはYouTubeだけではここまで流行らなかったと思う。実験的に動画を貼ってみる。
ここに貼ってもニコニコ動画を見てない多くの人は「はぁ?これの何が面白いの?」ってなるんじゃないかと予想する。それはたぶん、祭りの雰囲気を望遠鏡で眺めてる状態だからであって、自分が祭りの参加者になっていないからある意味個人の冷静な価値判定が出来ているのだと思う。
まとめ
人間は
- 感情(どれだけ感情を揺さぶられるか)
- 知識(既存の知識=自分の記憶とどれだけ関係があるか)
- 状況と雰囲気
この3つで情報の価値を判定しているようだ。つまり
- あの娘をおとしたかったら感情を揺さぶれ
- つまらんと思った物事でも、知識が増えれば面白く変わる可能性がある
- オタクが一般人に知識を熱く語っても面白く思ってもらえる可能性は低い
- 状況と雰囲気を作れる人は、他人の価値判断をある程度操作できる
ということだね。じゃーまた明日ー