劇団、本谷有希子の「偏路」見てきました

面白かったです。もっかい見たいです。感想はこの行だけです。

以下は「偏路」を見たことで想起された妄想なので、ネタバレはありません。というか「偏路」の舞台とあまり関係がありません。

人間は本性から遠ざかる生き物

平和な日本の大都市でのほほんと暮らしていれば、命の危険を感じる機会などまずない。生きる、とか、生き残る、というのは動物の本性(このエントリでは本能と同じ意味)だが、十分発達した社会で暮らす人間たちは、自分の本性がもつ「生き残る!」という根源的な部分を意識することはまず無いと思う。

また「殺して奪う!」のような動物的な本性(「生き残る!」の応用篇)や、「あの娘を犯して子孫を残す!」のような凶暴な本性(これも「生き残る!」の応用篇)も、教育と法律によってある程度封印することに成功していると思う。ついでに、この社会では理性的(=本性を抑えられて常識がある人)であるかどうかが、社会に受け入れられるための必要条件にもなっている。

意識されない本性は、無いのと同じか

意識されないけれど、なくなったわけではない。

人間の本性には他の動物と同じく「命のやり取りを生き抜く」という銘が刻まれていると言える。なぜならば、文明を発達させて、肉体的な脅威(=死)を徹底的に排除してきた現代社会がその証拠になるからだ*1。誰もがそっと蓋をしているだけで、心の奥底には、それが必ず在る。

本性を意識する瞬間はあるか

普段意識しないものを感じるのは難しい。人間は「差」によって物事を認識するからだ。

たとえば、街を歩いてたら動物園から脱走したライオンと遭遇して、手に持ってた携帯電話で闘うハメになるとか。スノーボードで滑走中に山頂から雪崩、でも運動不足だから太ももの筋肉はそろそろ限界とか。そうなれば「殺られる!」という人生最大級の危機感を感じるし「怖い!」とか「死にたくない!」とか絶対に思うだろう。現代に生きる人が本性を意識するには、そんな突拍子もないシチュエーションが必要になってくる。

本性が出る瞬間って、ほとんどコントなんじゃないか*2。少なくとも現代の日本では。

リアルはどっちだ!

誰もが本性を殺して、理性…というよりは「社会的常識」と呼ばれる衣をまとい、場面場面に応じて自らに与えられた役割を現実世界で演じている。その衣同士が擦れ合う音は、嘘の音。だが、あらゆる物事や対話を円滑に“つつがなく”進めるためには、その衣が非っ常〜に重要な潤滑油となるため、おいそれと脱ぐわけにはいかない。

馬鹿みたいに本性をさらけ出すのは反社会的行動と見なされる。それが許されるのは赤ん坊だけだ。

…という幼稚な社会認識をもってしまうと、舞台の上で本性をむき出しにしてるドロっドロなキャラクターの方がリアルで、現実世界の方がよっぽど虚構と自己欺瞞に満ちているなーとか思ってしまったりする。舞台じゃなくて、観客席の方が演劇なのでは?という錯覚に陥る。

で、そういう認識を持った大人ってかなり危ない(なんか突発的に事件とかやらかす)と思うので、自分も気をつけないといけない。逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃd、あ、夕飯食おっと。

*1:結果的に本性を忘れるという皮肉な展開になっているが、「本性」に消費される“脳力”が減った分だけ他の物事に分配された⇒それが故にここまで発展できたのだから、戦略的には成功なんだと思う。内戦やテロの脅威に怯える、日常的に「死」が隣にあるような地域では科学も経済も発達し難い。それは、すぐ人が死ぬから+本性にリソースを割いているから、だと思っている。

*2:コントといっても命がかかってるから笑えない