萌えの生まれた背景から、萌えの正体と未来を考えてみる

吉本隆明ふうに言えば、「大きな物語」=「共同幻想」に自己の居場所を見いだせなくなった70年代後半以降の大衆は、徐々に「小さな物語」=「対幻想」の内部へと入りこんでいった。この「対幻想」の中に「恋愛」という物語があったのだ。故に、かつては少女漫画の世界だけで消費されていた恋愛物語が、徐々に様々なジャンルに拡大していったのである。

 この「恋愛」への志向がさらに内向し、「対幻想」からさらに狭い「私的幻想」のレベルへと突き進んだ結果、突如として発生したものがアキバ系の「萌え」ムーブメントだったのではないだろうか、と筆者は過去に何十回か書いた気がするのでこのあたりはあまり繰り返さない。

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萌えとは私的幻想から発生した「ムーブメント」だったのか?

なぜ共同幻想に自己の居場所を見いだせなくなったのか?とか、なぜ私的幻想が流行ったのか?とか、萌えってそもそも何だったんだろう?今後どうなるんだろう?という疑問について自分なりに考えてみたい。

(以下、共同幻想とか私的幻想という言葉の定義も曖昧なままで書き進める。誤解もあるだろうし、オレオレ解釈もたくさんあるのでツッコミは歓迎です。)

共同幻想はどういう時に生まれるのか

いろいろ考えてみると、どうやら

  • 皆の不満が一致したとき

に生まれるようだ。

そうなる要因はいろいろありすぎるので割愛するが、最終的には皆の不満が一致する状況が発生すると同時に共同幻想が生まれる。共通の価値観が生まれ、共通の正義や共通の敵が生まれ、場合によってはそれを倒すために一致団結したりもする。

人々の不満が共同幻想を生み、政治や文学はそれを補強(または破壊)する。

私的幻想がどういう時に生まれるのか

共同幻想が生まれない状況では私的幻想が育まれる。

つまり、皆の不満が一致しなくなったとき、もう少し言えば

  • 皆に共通の大きな不満が大体解消されてしまったとき

それ以降は、私的幻想が支配的な世の中になるだろう。

不満と羨望によって自然と統制されていた価値観は百人百様にバラつき、人々の欲望の熱は(一応)分散する。共同幻想は限りなく薄くなり、私的幻想の構築と追求が始まる。

で、国民の生活が比較的豊かになった日本は、少なくとも20年前くらいから正にそのような状況にあったように思う。価値観の多様化による少子化や、自分に都合のいい現実だけを信じるストーカーの増加、働かなくても生きていけるニートの増加などは、そのことを如実に表しているのかも。

そこにタイミングよく登場したのは…

インターネットだった。

私的幻想(個人的な嗜好)の追及のために、こんなに都合のよい情報媒体は他に無い。地球全土を覆い個人を直接繋ぐネットワークは、どんなに狭くて偏った嗜好であろうとも、同じ仲間を発見でき、彼らとリアルタイムで情報交換することも可能になった。

「堂々と私的幻想を追及しても良いんだ!」という認識は、ネットが登場するのと前後して着実に広がっていったように思う。実際それがインターネットのせいかどうかは調べようもないが、オタクが市民権を得た(得てる?)ことは、ネットの登場なしに語れないのではないかと思う。

突然ですが『萌え』とは何なのか

  • 本来理解し合えない私的幻想同士を繋ぐひとつのキーコンセプト

それが『萌え』なのではないか。

人間誰しも「この気持ちを誰かにわかってもらいたい」とか「誰かからの反応が欲しい」という願望は常にある。それは私的幻想が支配的になった個人や世界でも変わることはない。

そして、自分の私的幻想と、他者の私的幻想を、感覚的な状態のままで直接理解可能・会話可能にするために生まれた概念。それが萌えなんじゃないかと考えている。

で、もし本当にそんなことを可能にする概念なのだとしたら、萌えというのは心理学で言うところのアーキタイプの一種なんじゃないか?オタクだけに芽生える特殊なものではないんじゃないか?とさえ思う。

…やあ暴走してるなぁ。

共同幻想への回帰と萌えの終焉について

既に仮定の上に仮定を立てまくって、検証も回収もせずに一体どこの姉歯かっていう話になっておりますが、もうちっとだけ続くんじゃ。

前述した通り、私は『萌え』に似たものは、オタクだけでなく人間誰しも持っている可能性があると思っている。それは、赤ん坊とか小さな動物を見ると、かわいいとか守ってあげたいと思うのと似たレベルの(内容が似てるという意味ではなく、レベルが似てるというだけの意味)古い本能に近い記憶として。

そして、本田さんは「われわれがその内面に抱く『私的幻想』とは常に『共同幻想』側への逆流を最終目的にしている」(32ページ)という可能性を示唆する。

 すなわち、これは次のような衝動を指す。「共同幻想」から逃れ、「対幻想」にも浸りきれない人間が、「私的幻想」を大事に温めている。そしてその「私的幻想」自体が内部を突き破って、現実の「共同幻想」に向かおうとする。この衝動に憑かれたのが、加藤容疑者であり、このようなテロリストを生み出す構造を、「私的幻想」は内包していると分析する。

温まった私的幻想は共同幻想に向かおうとする?そうだろうか?

確かに、他者と繋がりたいという欲求はあるし、それは共同幻想を欲する、または自ら演出する方向へと歩を進めさせることになるのかも。しかし、一部の人達の私的幻想は『萌え』という上位概念を得たことによって、私的幻想のままで他者と繋がることを可能にしてしまったのだ。

で、また話がすっげー飛躍するが、加藤容疑者はおそらく『萌え』のような架け橋を得られなかったのでは?彼の私的幻想は誰とも繋がることができず、ただ一人で不満を募らせ(不満は共同幻想の種なのだが、彼はそれを世間に訴える術を持たなかった)『萌え』という概念で他者と繋がっている人達に向けて憎悪を爆発させた。彼が渋谷を通り過ぎて秋葉原を襲撃したのは、そういうことだったのではないか。

ある程度平和でそれなりに満たされた世界が続いてきた今、個々人の中にある私的幻想は膨らみ続けている。

それは萌えの終焉を意味するものでは全くなく、逆に萌えのような架け橋が渇望されている状況じゃないだろうか。個人的な感覚では、誰も共同幻想への回帰なんか望んじゃいない。私的幻想を抱えたままで他者と繋がることができる概念や表現の方が求められているように思えるのだ。

皆にわかって欲しいってわけじゃなくて、誰かに、あなたにだけでもこのコアな感情が伝わればいいって寸法だ。

もし萌えに代わる(いわゆるオタクでない人達でも理解可能な)架け橋を発見・発明した文学者がいたら、その方にはノーベル文学賞、いや、ノーベル平和賞が授与されてもおかしくない。そんな状況に今の日本は立っている。

もう一度文学について考える時期に来ているのだと思う。それはほんとに基本的な「人が生きるとはなにか/死ぬとはなにか」という問題に立ち返ることだろう。現在を生きる人たちに、この問いの答えを、文学は用意することができるのか。まさに「國文学」向けの論考であった。

「生」を書くためには「死」を書かねばならない。だが「死」という概念では、私的幻想を繋ぐ架け橋にはなりそうもない。なぜなら死は全人類共通のテーマだから。何かもう少し細胞の活動が活発になる方向のテーマがあれば良いのだが。細分化が進み、複雑になった世界では、個々の領域の数だけ「萌え」に代わる架け橋が必要なのかもしれないな…。

最後に

皆に共通の不満を煽るだけ煽って、共同幻想に回帰させる!という方向転換のさせ方もあるだろうけど、それってなんか恐ろしく感じる。国が一丸となって、どこに飛んでくか判らない危うさを感じる。

それならいっそ私的幻想をつきつめてもらった方が健全というか。多様性万歳というか。でも、私的幻想を追及できるくらいに不満の少ない世の中なんて、そういつまでも続かないのかもしれんけど。