ゲーム産業の強さとはなにか?

先日、とある偉い人に
「ゲーム産業の強さとはなにか?」と訊かれた。

少なくとも現在は
その質問に対して、応える義務も責任も資格もないように思えたのだが
その理由を伝えるのも、かなり面倒くさいので

「『ゲーム』、という言葉の持つ定義が
 どんな形にでも柔軟に変化することができて
 それが基本的には、大きくなっているというのは
 1つあるんじゃないかなあと思います」

と、偉そうに応えた。

ゲームという言葉の定義の曖昧さというか懐の深さというのは、なるほど産業としての強靭さ(ロバストネス)に繋がりそうだと思った。

「ゲーム産業の強さとはなにか?」

と私が聞かれたら

「『楽しさ』を皆で追求する産業だから強いのだ」

と答えるだろう。以下、説明を試みる。

楽しさの追求なんてどの産業でもやってる?

『楽しさ』を純粋に追求してる産業がどれくらいあるだろうか。

便利さや有用さだったり、効率だったり、おいしさだったり、正しさだったり、安心だったり。大多数の産業は、基本的にそういう「役立つもの」を追求してると思う。

が、ゲーム産業というのは徹底的に「楽しさ」を追求してきた。作り手も受け手も、全員参加で「楽しい!」を作って選択してきた。

いや最近でこそ、脳トレとかお料理ナビとかTOEICなんたらとかね、そういう役立つ系も売れてますけども。そういう系でさえも「役に立つ」よりも先に「楽しい」がないと、ゲームとしては全然売れないと思うんですよ。(教材としては売れるかもしれんけどね。)

ゲーム産業は役に立つことよりも楽しさを優先する希有な業界なのである。

エンタメ産業も「楽しさ」を志向してる?

エンタメ産業とゲーム産業には大きな違いがある。

エンタメではお客さんは「見てるだけ」になるが、ゲームでは「必要不可欠なキャスト」になることだ。無論例外はあるだろうが、ほとんど当てはまると思う。

ゲームを完成させる最後のピースは、いつもプレイヤーたちなのだ。

自分なりの結論

制作者と購入者が一体となって、徹底的に「楽しさ」を追い求めるのがゲーム産業の基本構造になっている。この(産業としてはちょっとレアでアレな)構造が、ゲーム産業の強さの秘密に違いないと思う。

この構造がある限り、時が流れ、価値観や文化や楽しさの定義がどんだけ変わろうとも、ゲーム産業は生き残り続けるだろう。