僕らは文脈を食べて生きている

人間は大なり小なりコンテキスト・イーター(文脈食い)だという話を。

ピクニックで食べる弁当はうまい

野山を数時間散策する。緑の木々と清涼な空気で満たされた後、ちょっとした疲れと共に、広大な自然の中で広げる弁当って本当にうまい。いつもと同じ弁当でも、学校や会社などで食べる時とは別次元のおいしさに感じられる。

似たような話で、アウトドアで仲間と一緒に作ったカレーなんかもすんげーうまい。それが普段作るカレーと同じ材料、同じレシピだったとしても、いつもより1ランク上のおいしさで胃袋と心を満たしてくれる。

自分で釣った魚を、その場で焼いて食べるというのも格別である。

というような体験を整理すると…。

うまさの秘密

おいしさを構成する要素は「味」だけではない。

周囲の環境、その場の雰囲気、誰が作ったか、作り手と自分の関係、一緒に食事をする面子、その食事を口にするまでの苦労(外食であれば食事の値段や、料理に込められたバックグラウンドストーリー)などといった食の周りにあるすべての要素(情報)が絡みあって、ひとつの『おいしさ』を構成している

それはもう食べ物を食べているというよりも、食べ物にまつわる文脈を食べていると表現した方が正確なんじゃないか。

たとえばコンビニの惣菜ポテトサラダでもね。高級料亭の一室で、ものすごい高価っぽいお皿に綺麗に盛り付けられて、おごそかな雰囲気で出されたら、それなりにおいしく感じてしまう人は結構いると思う*1。私を含め。

で、そのように文脈によって認識が左右される人間のことを

  • コンテキスト・イーター

と命名する。

ことは味覚だけに留まらない

あらゆる認識は文脈によって生み出されたり、左右されたりする。

たとえば悲しさの場合。

自分と無関係なものが壊されるのを見てもそれほど動揺しない。だが超苦労して、毎日コツコツと実に3年の月日をかけてようやく完成したガンプラ(塗装も完璧、よごしまで入ってる)がバキッと叩き壊されたら「おおおおおおおおお俺の3年間の努力があああああああああ」ってなるだろう。私なら間違いなく泣いてるレベル。悲しみと同時に怒りの感情もこみ上げてくる*2

たとえば感動の場合。

高校サッカー高校野球を見ているとき、テレビに映る高校のことを自分が何も知らなければ、彼らが勝とうが負けようが「よかったなー」または「残念だったなー」という一般的な感想に落ち着くだろう。

しかし、彼らが国立競技場や甲子園に至るまでに日々努力してきた姿や、乗り越えてきた苦難を知っていたらどうだ?レギュラーになれなかった選手たちの物語を知っていたら?選手たちが自分の後輩や身内や友人や知人だったら?昔っから、ずーっと応援してる高校だったら?

本気で「勝ってくれ!!」と願うし、もし負けようものなら選手たちと一緒に、たとえテレビの前でも涙するだろう。「よくがんばった!!」と。オッサンくさいですけどもね。

その他もろもろ。

そんなのは当たり前かもしれないけど

現代の人間にはコンテキスト・イーターの側面が強くある*3

僕らは文脈の上で、文脈を食べて生きているのだ。

*1:もちろん、プロの料理人や海原雄山の舌は誤魔化せないだろうけども

*2:話のレベルが小さくて恥ずかしい。あと私は特にガンプラ好きというわけではない

*3:文脈に依存しない原始的な感覚や認識も当然残ってはいる