TVゲームの体験は、映像がリアルになるほど自分から離れていく
最初に断っておいても無駄かもしれないが、このエントリはWii礼賛エントリではありません。(ただし書き手は任天堂信者です…ああっ、説得力が失われていく…)
Wii Sportsの体験はかなり「自分自身の体験」に近い
『Wii Sports』のテニスやボクシングが上達すると「自分自身がうまくプレイした!」という気分に浸れる。
ところが、超リアルな映像が売りのPS3のテニスゲーム『Power Smash 3*1』が上達しても、「自分自身がうまくプレイした」ではなくて、「自分が操作したキャラがうまくプレイした」という、なんというか、自分とゲームの間に余計なものが一枚挟まった感覚になる。
そんなことを感じるのは自分だけかもしれないが、話を続ける。
何が原因で体験に違いが出るのだろうか?
結論から書くと、自分で補完する余地の大きさが違うのである。
はっきり言って、PS3のゲームに補完の余地は無い。だってキャラクターは超リアルだし、動きも本物に近いし、映像の作りもテレビ中継で見るテニスとほぼ同じだし、徹底的にリアル。いうことナス(古すぎる)である。それはもう、テレビの中で起こっている現実と言っても…まあ過言だけど、過言じゃないレベルに日々近づいているのだ。
ところがWii Sportsを見よ!
キャラクターは似顔絵こけし(Mii)だし、動きはコミカルだし、映像は「ああゲームだねー」って一瞬で分かるレベルだし、これを本物だと勘違いする人は全地球上を探し歩いてもどこにも居ないだろう。全然リアルじゃないのだ。
だが!リアルじゃないからこそ、脳内で欠落した情報を補完する余地が生まれ、それを補完して得た体験というのは、正に自分自身の体験になるのだ。
逆に徹底的にリアルなゲームは補完する余地が無く、あくまでもテレビの中の現実風映像と、自分の体験というのはいつまで経っても重ならない。それどころか、リアルさが増すほど「自分は見てる人」であるという認識を濃くする結果になってしまう。
Wii Sportsは体で操作するから一体感があるだけじゃないの?
体で操作することも大きな要素だが、それが一番重要ではない。
それを説明するために、Wii Sports開発時のエピソードを紹介しよう。
試作品を作った当時、開発チームの中にはデザイナーさんがいなかったため、自分が動かすキャラクターがとてもシンプルな「こけし」風の何かになってしまった。しかし…
そのシンプルなキャラクターで遊んでみて、すごく「自分が遊んでる」という感じがしたんですよ。
一度、試しにキャラクターにマリオを使って遊んでみたこともあったんですけど、マリオだと、ぼくがそこでテニスをしてるんじゃなくて、マリオをうまく操作してマリオがそこで遊んでいるという感覚になってしまうんですね。
ところがシンプルなモデルを使うと、「こけし」が遊んでるんじゃなくて、ぼくが遊んでいるという感覚がすごくあったんです。
(太字は引用者による)
キャラをマリオにしただけで、自分が遊んでる感が阻害されている。
マリオというキャラクターは世界で一番有名なヒゲオヤジである*2。人間は、一旦その特徴を持ったキャラクターを「マリオという人物」として認識してしまうと、後はどう頑張ってもそれは自分ではなくマリオ(他人)として認識されてしまうのであろう。
このことから、自分が遊んでる感を得るためには、
- 自キャラにも想像の余地が必要であること
- 操作の一体感があるだけでは駄目なこと
が分かる。
まとめ
TVゲームは、補完の余地を奪えば奪うほど『自分の体験』じゃなくなっていく。