日本人が空気を読もうとするのは言語の仕様だった

日本人が空気を読もうとする理由がわかった。
おまけに欧米人が思ったことをズバズバ言い合える理由もわかった。

根本は言語の違いにある

英語の発音は多彩だ。同一の発音*1で同じ意味になる単語がとても少ない。これは英語の会話を録音して、単語を1つだけ切り取って聞いたとしても何の単語なのか特定できるということ*2

日本語は真逆。『気候、機構、寄稿、寄港、奇行、気功…』や『構成、攻勢、校正、公正、更正…』などなど、発音だけでなく音の高低さえも同じになる単語が少なくない*3。「きこう」という発音だけを聞いても、前後の文脈が判らなければどの「きこう」を指しているのか特定できない。

つまり、

  • 日本語は聞き手の想像力を要求する
  • 英語は話し手の発音テクニックを要求する=聞き手の想像力など要求しない

というわけだ。

日本語の場合、言葉の解釈は文脈に依存する

日本語では文脈に影響を与える要素を踏まえておかないと会話が困難になる。

今はどういう状況で、何の話題がどんな雰囲気でテーブルの上に乗っているのか?会話の相手がどのくらい自分と同じ語彙や概念を共有しているのか?などなど、文脈の解釈に影響を与える要素は多岐に渡る。

それを体感的に知っているから日本語圏の人は日常的に空気を読もうとするし、相手の状態を察しようとするのだろう。要するにある程度普通に意思疎通を行うためには、空気を読む必要があったのだ。

『受信型文化』だとか『察しと思いやり』だとか『おもてなし』の原点もここにある。

英語の場合、言葉の解釈は発音に依存する

正しい発音と正しい聞き取りができれば、発音した通りの文章が伝わる。聞き手の“想像力”など問わない。空気を読む必要なんか無いのだ。

だから発信型文化、ズバズバと思ったことを言い合える文化が育ったのだろう。

どうやら空気を読むのは止められそうにない

日本語は、その言語仕様において聞き手の想像力を要求しているため。

もしあなたが空気を読むのを止めようと思ったら、

  1. 英語で会話してくれるよう周りの人に頼む
  2. 英語圏に移住する
  3. 誤解上等!で生きる

のどれかしか無さそうである。

言語仕様と改善文化

言葉のキャッチボールに受け手の想像力が求められる場合、自分が投げた言葉は直接相手に届かず、受け手の意識や解釈と混ざってから届くことになる。日常的な会話でさえも、キャッチボールの間にどんどんお互いの認識が混ざっていくことになる。これはなかなかすごい仕様だと思う。

そして受け手の誤解とは『投げ手の常識的には繋がらない認識同士の連結』でもある。そこで生まれる有用な誤解は『発想』と呼ばれる。

こんな言語仕様だからこそ、日本人は改善が得意なのかもしれないね。

*1:日本人的なカタカナ発音じゃなくてネイティブの正しい発音

*2:英単語の聞き取りテストが成立する理由

*3:ダジャレが文化になる理由