自分の内から湧き出る熱い想いこそが必要だ

昔の私は「その物事は論理的かどうか」を重視していた。

論理的でない物事を見つけると、それを論理的に分解・分析・解釈するとこうなる!というのを見抜いて「改善するならココしかないよね。論理的には」っていうのが大好きなガキだったように思う。

たぶん、そういう謎解きが好きだったんだろう(判った!とか、解けた!というのは基本的に楽しい体験だった)し、そういう自分が好きでもあったのだと思う。ちょっとしたナルシストである。「俺スゲー」的な。

でも、それは世間の感覚とはズレていたようだ。

「論理的にどうこう…」ってのは、自分が思っていたほど重要ではなかった。論理が優先される世界なんてほんの一握りしかなかった。どこもかしこも(建前はともかく)実態では論理などよりも感情が重んじられていた。

そこで、年齢オッサンでも中身は子供のAobaが得た結論はこうだ。

  • 人間の根っこの部分は論理では構成されていないのだ

まーなんだろね、これは。書いてみれば当たり前のことじゃんね。

だいたい論理ってのは『あとづけ』なんだよね。何かの目的のために、後から論理的な状態に変換する必要があったというに過ぎない。他人に伝えたいとか、何かの仕事の成功率を上げたいとか、効率良く改善をしたいとか。そんな理由があって、初めて論理が求められるようになる。

論理とは科学。感情とは自然。

論理は共有できるもの。感情は共有できないもの(共感するもの)。

論理は自分の一部。感情は自分全体。

多くの人が生きる根っこに論理はない。おそらく、自らの内に稲妻のように走る感覚、竜巻のように巻き起こる感情、太陽のように燃え盛る情熱、そういったものにこそ魂(魂なんて科学的じゃないけどね)の本質は宿り、人はそれらによって動かされていくのであろう。

自分の内から湧き出る熱い想いこそが必要だ。

それが世間という太平洋を泳ぎ切るための(自分にとっての)鍵なのだ。

そして情けないことに、それはまだない。