文脈をぶち抜く武士の一文

一文とは、ひとつの文章のこと。

以下の文章は、赤穂浪士が暗い吉良邸に突入するときの話(太字は私の手による)。

とにかく、敵か味方かわかりづらいのはすごぶる危険です。闇雲に突撃するわけにもいきませんし、やらかしてもうてから仲間だと気づいて土下座しても、当然もう手遅れです。そりゃあ、その時は許してくれるかもしれませんけど、一緒に風呂入るときとか、やっぱり傷口とか見ちゃうと気まずくなるに決まってます。さすがに日本刀で斬りつけたぐらいで死んだりしないとは思いますが、テンションは下がる。それはまずい。

この文脈でいうと、一緒に風呂に入るというのは、銭湯のような大浴場で男数人が裸の付き合い…ということなるのは間違いない。ところが私の場合「一緒に風呂に入る」という文章を目にしたときに最初にイメージされる風呂は、大人が二人も入ればいっぱいいっぱいになるような、浴槽でも膝を伸ばせないような狭〜い家庭用の風呂場なのである。下手したらユニットバスである。
そして運悪く、たまたま武士っぽい、或いは男社会っぽい文脈をたどってきた後に一緒に風呂に入るという、ある意味究極の人付き合いを示す一文を目にしてしまうと、瞬間的に脳裏に浮かぶイメージは、

  • 狭い風呂場に男が二人、背中を流し合う映像

になってしまうのであります。

や!断じて!私にその気はないのにも関わらずですよ!

結論

育ってきた環境は、人間の世界認識や記憶の想起に多大な影響を与える。
あと広い風呂とか重要。